南郷村物語 2 交流の風景 ⑴
2021年 02月 10日
1985年、百済最後の都、块餘への王族の ルーツを訪ねる旅が始まる。扶餘は太宰府、飛鳥と姉妹都市を結んでいる、韓国 の歴史の表舞台である。「百済王伝説は日本に数多くあり、伝説だけを頼りとする交流は心もとない、南郷村側の今後の調査を期待したい」との扶餘郡守の言葉であったと聞く。
しかし、この訪韓調査から大きなコマがでてくることとなる。帰国後、地元新聞の片隅に「南郷村百済王族のルーツを訪ねる」という記事がでる。この記事 を見られた方から、南郷村に電話が入る。「奈良の国立博物館を見学した時、展示品の銅鏡に宮崎神門神社と記されていたものがあった」と。
朗報を得た南郷村では百済王伝説・師走まつり・銅鏡についてまとめ「神門物語」を出版することとなる。これをもとに、1986年「百済の里づくり」の構想が、基本コンセブトを「子々孫々に誇りうる南郷村の創造」とし、基本計画書としてまとめられる。
村おこしは15のプロジェクトにより構成され各種整備がスタ一トする。 中核施設となるものは、伝説・宝物の展示の場となる「西の正盒院」・韓国との交流のシンボルとなる「百済の館」である。
私が百済の里づくりに参加するのは、1989年3月、百済の館建設の設計者として加わることから始まる。当時宮崎市内の設計事務所に勤務しており、館設計の担当者となったことが、その後の百済の里づくりに深く関わることとなる。
百済の館計画に当たって提示された条件は、百済文化の紹介および焼肉料理の提供の場所ということであった。伝統的な木造の建物の中に厨房施設をはじめとする水回りをいかに配置していくかが計画のポイントであった。



