諸塚村産直住宅への取組
2022年 11月 17日
天然乾燥材(葉枯し材)を使った住まいづくりを1998年に始めました。
毎年建築主家族と一緒に諸塚村の葉枯し現場を訪ねています。
そして森林組合の加工場ではたくさんの木材に触れていただき、
季節によって夜は神楽を見に行き、
地元の人に山のこと木のこと多くのことを教えていただきます。
私たちはたくさんの木に、囲まれています。
そして山には培われた文化が、今だに息づいています。
木という素材だけでなく、
木を育てた山の人達の想いを住まいづくりの中に取り入れてみませんか。
家族の成長を見守ってくれる柱や梁には、
山で見た風景や出会った村人の笑顔が、家族共通の想い出として宿ることでしょう。
住まいは「買うもの」ではなく、多くの人との関わりの中で「つくりあげるもの」です。
一つの住まいを作りあげると、その家族と関わった人々にとって、
まさに一つの「物語」がそこに生まれます。


住まいは「買うもの」ではなく、
多くの人との関わりの中で「作りあげるもの」です。
一つの住まいを作りあげると、その家族と関わった人々にとって、
まさに一つの「物語」がそこに生まれます。

2004年の1月(27日)の宮崎日日新聞に掲載された記事を紹介します。
記者が「人生に物語を提供」というタイトルで私の取組みを取りあげてくれました。
私の家づくりの中で、特に山とのかかわりに興味を持たれ、記事にされたものです。
家を建てられる方のパートナーとして、
どのようにかかわっているのか紹介していただいています。


1998年から山とかかわった家づくりに取り組んでいます。
宮崎県内をメインに遠くは福岡県・鹿児島県とその機会をいただきました。
かかわっている山は諸塚村の山です。

諸塚村のお隣に南郷村(現在美郷町となりましたが)があり、
この村は「百済の里づくり」を通して多くの人に知られるようになりました。
私はこの「百済の里づくり」に深くかかわり、多くのことを学びました。
1985年にスタートした「百済の里づくり」のひとつとして、
村を訪れる人達のもてなしの場「南郷茶屋」の計画がでてきました。
「百済の里づくり」は百済の街なみを作ることではなく、
施設計画にあたっては、
ふるさとをイメージした風景を作りあげていくことを大きなテーマとしていました。
計画にあたっては当初より「茅葺き」はできないだろうかと考えていました。
南郷村では茅葺き民家が、
昭和30年代に板金葺き・瓦葺きに変わっています。
宮崎市内の県立博物館の敷地内には宮崎を代表する民家が数棟移築されています。
当時、工事関係者に茅葺きの施工単価を確認すると50,000円/㎡かかるとのこと、
限られた予算のなかでは実現は不可能でした。
役場担当の方に公民館長会議にて茅葺きの話をしてもらうと、
茅葺きの経験者がまだ健在であること、
茅の材料となるススキについては、
水清谷地区の山にたくさんあるという情報が入りました。
南郷村には神門・鬼神野・水清谷・渡川の四つの地区があり、
各々の地区から茅葺きに詳しい方に集まってもらいました。
76才から93才までの13人による茅葺き名人会ができあがったのです。
民家はその土地の人々の手で、土地の素材を使い、
気候風土を考えた作り方をするため独自の地域性がでてきます。
そしてそれが地方の風景を作り出しているのです。
事前に葺き方について話しを聞くことから始めました。
話しを聞くと四つの地区で葺き方が違うのです。
茅屋根は全体で見ると矩勾配となっていますが、
束ねられた茅一束々はそれより緩やかな勾配となっています。
各地区での違いは軒先での最初の勾配のとり方に出てきました。
一般的には茅だけで軒先を処理する方法なのですが、
打合せの時に最も声の大きかった地区の手法を採用することになりました。
それは軒付茅の下に杉の小枝(葉付き)を使う手法で、
宮崎県内でも他には見られないやり方です。
1996年1月9日に茅葺きが行われました。
当日4つの地区より300名以上の参加があり、
13人の名人の指導のもと作業が進められました。
屋根を寄棟としたため、各々の地区で東西南北各々の面を担当してもらうこととなり、
日の出と同時に屋根の上での作業が始まり、
夕方には棟部分を残して作業が終了しました。
日本の文化は里山から生まれたといわれます。
茅葺き作業を通じ、至る所に人の知恵を見ることができました、
また体力・経験による作業場所・内容と山で培われた人間関係をその場に見ることができました。
当日はリタイヤーされた方々がその知恵と経験により主役となりました。
茅葺きを経験して強く感じたことがありました。
それは経験や知識の大切さだけではなく、かかわることの大切さです。
村の建物を村民の多くの人がその建設に手をかけたのです。
この経験により物づくりにかかわることの大切さを強く感じました。
かかわったものに対する愛着と言うことなのでしょうか。

1996年、百済の里づくりも、一様の施設整備が終わりました。
その時に諸塚村との出会いがありました。
自分の育った山に新たな可能性を持って、帰ってこられた役場職員(矢房さん)との出会いです。
そして諸塚村の自然と山を守ってこられた村人との出会いです。
ここで、若干諸塚村のことを紹介します。

この村は1993年の第一回朝日森林文化賞を受賞しております。
古くから椎茸原木林の造成を進めてきた村人は、
昭和30年代に行われた杉・桧による拡大造林の中、
先人の教えである適地適木主義を守り通し、
北面の湿地帯には杉・桧等の針葉樹を植え、
南面の乾燥地にはクヌギなどの椎茸原木を中心とした落葉樹を、
また渓谷添いなどには天然林の雑木を保存したのです。
孫の代にしかお金にならない杉・桧だけでなく、
短期間で収入となる椎茸のホダキとして使われるクヌギの選択は山で生きる人々の知恵でした。
結果、山肌はモザイク林となっていきました。


諸塚村では、山奥まで管理のための作業道がつくられ、
山そして木々の手入れが積極的に行われています。
林内の道路密度は54m/ha。宮崎県内の平均が31.8m/haで全国1位と言われていますが、
これと比較してもいかに整備が進んでいるかがわかります。

諸塚村での作業道の普及と管理を支えたのは行政だけでなく、
明治以来の88箇所の集落を単位とする地域の人々であり、
その後にできた16の公民館の自治活動によるものでです。
大きな災害に発展する初期の段階で住民によって自主的に補修され、
山の崩壊へとつながらないシステムができあがっており、
現在もそれは機能しています。

当時、講師をしていた専門学校の学生を連れて、
尾根沿いにある集落山鴫の山村生活体験施設であるやましぎの杜に出かけ、
地元の方達の指導のもと山での生活体験を行いました。
当時、全国、いたる所でいかに交流人口を増やしていくかが模索されており、
さまざまな取組みが行われていました。
ここ諸塚村で進めようとしているのは、
交流人口の数を問題とするのではなく、
その質を求めようとしているように思われました。


人の一生の中で、家をつくるという大きな取組みの中に、
培われたモザイク林で育った木を取り入れようという、
ある種壮大なるロマンではと感じました。
個人のロマンである持ち家と、
自然環境保全の担い手としての役割を再度求められている森を、
組み合わせようというものです。

山を守ってきた人々の歴史とその「想い」をもっとも身近かな住宅に、
その計画段階から工事そして完成後まで実感できる形で取り入れることができれば、
そのシステムは、新たな住まいづくりの可能性をもつのではと思いました。

長期的な視野を持ちながら新しいことに取組む姿勢に、
「山からの恵みを受けるために山を守っていくのだ、
そしてそれが結果として森林保全という形で川下の人たちに役立つのである」
と言われた林業に励む村人の姿をも、
重ね合わせてしまいました。

私が初めて諸塚村の木材に取り組んだのは1998年の春です。
建設場所は都城市でした。
古くなった貸家を、新しくしたいという建築主の話しから計画が始まりました。
建築主が勤める職場で、子供がアトピーで苦しんでいる同僚がおり、
今回建てる貸家は、自然素材を使い、
シックハウス症候群の原因となる建材を使わないようにしたいというものでした。

自然の物である木材ですら、流通材はどこで手が加えられ、
どんな処理がされているかわかりません。
話しを進める内に、木材の産地を訪ね木がどのような場所で育ち、
どのような流通で現場へ搬入されるのか実際見てみようということになりました。

当時、諸塚村は、
生産者と消費者のお互いの顔が見える方式で産直住宅の取組みをすでに始めており、
その年の6月に建築主の御夫妻と共に産直ツアーに参加しました。
計画当初、建築主は「なぜ諸塚材を使うのか、
都城市は南九州で有数の木材集積地であり都城周辺も多くの木材が産出されているから、
なるべく地元の物を使えば良いのに」と言われていました。

実際、産直ツアーに参加し、天然乾燥の現場を見ていただき、
山の現状を熱心に語る森林組合の方、
山村の今後のあり方を環境保全という視点で話す役場スタッフらの話しを聞き、
そして何よりも諸塚村のモザイク林そしてそれを支えてきた山村文化を目の当りにし、
すっかり諸塚ファンとなりました。

8月に工事着工となり、木材の切り出し現場での打合せ、
9月に迎えた上棟時にと、建築主と山主がお互いを訪ねることになりました。
12月には竣工を迎えることができ、
諸塚村より関係者10数名が祝いの席に出席され、
この席で建築主は諸塚村親善大使の称号をいただくことになり、
より一層諸塚村への想いを深めたようです。

本来「諸塚材」というブランドはありませんでした。
しかし、材齢の長い材の葉付き自然乾燥材、
北斜面に育った目の詰まった良材などの提供を受けることで、
その可能性を強く感じています。

また諸塚材の魅力を考える時、
材質そのものではなく諸塚という村が前提としてあると感じています。
山を大事にする心、神楽を始めとする伝統文化を大事にする心、
山を訪れる人をもてなす村びとの心、
そういった山に生活している村人の想いが木材に込められて出荷される。
それが結果として「諸塚材」としてのブランドができあがるのだという想いを強くしました。
このように考えれば、県内多くの木材産地のブランド化が可能になります。

ここで、いくつか実例としての家づくりを紹介します。
見ていただいている資料は、
私が取組んだ住宅をなるべく多くの人に知って欲しいと思い、
住宅の計画段階、工事の途中、そして完成後にと、
機会あるごとに出しています「宮崎自然派住宅」通信です。
ホームページでも紹介しています。
まずは2003年9月に完成したT邸を紹介します。
通信では、Tさんが1997年2月の長女誕生を機会に家づくりを思い立たれ、
そして2000年2月に完成し、
その春の4月14日に諸塚村へ「交流の森づくり」に参加され、
ご家族で植樹された時までの経緯を細かく紹介しています。


2002年の暮れに、諸塚村の森林組合加工場より、
77年生の杉が葉枯しされるという電話をいただき、
2003年の2月14日に建築主のYさんを誘い葉枯しの現場へ行きました。
諸塚村七つ山の北粉(ほくそぎ)の山です。
現場は北斜面の急峻な場所です。
材の根元はその地形のため大きくまがったものであり、
材齢の割には大きくなく、しっかりと目のつまったとても良い材でした。
Y邸は、春に工事の着工を予定していたのですが、
葉枯らし現場で「これを使えるのであれば、着工を延して欲しい」との要望がありました。
葉枯らし材は、山から切り出されるのが3月頃であり、
自然な乾燥を考えると、どうしても、10月に現場へ搬入する工程となります。
自然の物を自然に近い状態で使うのであれば、
その特性にあった方法を考慮しなければなりません。


Y邸には全部で7本の松梁を使う計画で、
そのうち2階の床を支える末口36㎝、そして長さが7mの松梁がメインです。
森林組合の山本さんより、アカマツの切り出し現場があり、
そこに要望していた大きさの物がある旨の連絡をいただき、
5月10日に現場へ案内していただきました。
建主のYさんと、事務所のスタッフ、そして私の長女も一緒に行きました。
現場は森林組合の加工場より40分ほど登った場所で、
ここからは六峰街道の走る尾根筋、そして諸塚山が一望できます。
行く途中で、尾根筋に立ち枯れたアカマツを数カ所みました。
アカマツが使えなくなる日が、来るのもそう先のことではないと思いました。
現場には50~60年生の使えそうな物が数本ありました。
ただし化粧材として使うため、その曲がり具合も選定のポイントとなります。
すでに倒されたもの、そして森の中に立っているものを含め、
候補となるものを3本見つけることができました。

工事着工後、加工場で木材の確認を行いました。
山で選んだアカマツがカビだらけとなり、
その対応についてあれこれと協議しました。
加工場で再度確認したところ、大きな断面で製材していたため、
ひきなおした面はきれいな木肌で一安心しました。
アカマツを化粧の梁材として良く使いますが、
いつもアオ(カビのこと)への対応で悩みます。
宮崎県内で全国ブランドとして、過去・現在も名前を聞く木材はと聞かれれば、
船の材料として使われたベンコウ材としてのオビ杉、
そして銘木中の銘木である佐野神社の佐野杉(霧島杉)、
そして日向アカマツがあります、
日向アカマツのなかでの最も有名なものが、
現在の東大寺の大仏殿で使われている、霧島アカマツです。

ひとつひとつの工程を建主に確認していただき、工事が進みました。
200年2月、完成しました。











