一昨日の2月9日、山小屋で山友の吉田氏と高瀬氏との会話の中で、加江田渓谷上流の家一郷にある「たたら神社」のことが話題になる。家一郷で江戸時代初期あたりから行われたという「たたら製鉄」については、以前から興味があり機会あるこどに情報を集めていた。
その後、北九州にお住いの松井氏から連絡をいただき、内海川上流に別荘をお持ちの岩元氏の案内で、松井氏と三人でたたら跡散策にご一緒することになった。松井氏氏はたたら製鉄についての研究者で「鉄の日本史」という本の中で江戸後期に飫肥藩が取り組んだたたら製鉄について紹介されている。
吉田氏より、家一郷の「たたら神社」が移転されるとの情報があり、移転される前にぜひ訪れてみたいと思い、本日(2月12日)、吉田氏と高瀬氏に道案内をお願いすることになった。加江田渓谷の入口となっている丸野駐車場に9時00分に待合せとする。
今朝、めざめて二階居間から見える双石山は一昨日同様青空をバックにその存在感ある姿を見せている。今日は絶好の渓谷歩きとなりそうである。
今日は、もちろん焼き芋は無し、ただしいつもは山小屋の囲炉裏で火を起こし体を温めているが、今日は渓谷歩きで体を温める機会は少ない。私も渓谷の植物には興味を持っているが、吉田氏、高瀬氏共に植物好きなので途中での観察が度々となり体を温める散策にはならない。
せめてランチは温かい物が食べたいと思い、久しぶりにカップヌードルを準備し山専ボトルもカップヌードルのお湯用と熱々のお茶用の2種類準備する。
8時50分に丸野駐車場に到着、高瀬氏はすでに到着しており、すぐに吉田氏も到着する。一昨日山小屋で一緒に囲炉裏の火を囲んだN村さんの姿があり挨拶を交わし、しばし談笑する。私はN村さんのことをM村さんと勘違いをしていたようで、早々に出会いリストを修正をしなければいけない。
9時10分すぎに丸野登山口をスタートする。目的地はここから通常1時間の行程の場所にある「ポツンと一軒家」という人気テレビ番組でも紹介されたお宅の少し先になり、遊歩道沿いにある平成登山口から入った場所付近に「たたら神社」はあるらしい。
神社の場所は二人が知っているので案内してもらえるが、たたら(鉄屑)の跡については双石山探検隊メンバーが詳しいのではと思いオッシーに電話してその場所を大方教えてもらう。
オッシーは本日はお休みらしく、私が電話をした時には自宅でストーブにあたりマッタリとした時間を過ごしながら「今日はどのルートで双石山に登ろうか」と思案していたらしく、それではと思い「待ってるよ」と電話をきる。オッシーの自宅は丸野登山口から30分以上はかかる所、果たしてくるのだろうか。
平坦な遊歩道を重たいゴローの登山靴で歩くのは如何なものかと思いながら、ゆったりとしたペースで、そして途中の気になる植物の場所では立ち止まり「アレヤコレヤ」と一向に体が温まらない。
渓谷でこの時期に花後の姿を見ることができる、私の大好きなTランについて、吉田氏、高瀬氏共に独自に見つけられた株があり、紹介していただきながらの楽しい散策となる。
途中、硫黄谷では霧島山系と繋がると思われる源泉を紹介する。遊歩道はほとんどが樹木に覆われているが、所々開けた場所がありそこは燦々と陽が入る、思わず手を広げて全身で太陽の恩恵を感じ取る。
広河原ベンチの陽だまりで小休止し多目的広場をスルーし、高校生の時に通っていた「家一郷キャンプ場」へ渡る潜水橋の痕跡を二人に紹介、そのうち遊歩道正面にログハウス風の建物が見えてくる。敷地入り口には「立ち入り禁止」の案内があり、ここが「ボツント一軒家」で紹介された家である。
進むと切り通しの先に鉄骨の橋があり、渡り切った正面に平成登山道入口の案内があり、そこから杉林に入り、しばらく進むと左側にしっかりとした踏み跡がある。この辺り一体はとくそ山系に囲まれた比較的緩やかな地形で、元禄年間にはすでにここに多くの人が生活し「たたら製鉄」を生業とした生活が行われていた。
杉林の中の踏み跡を少し上り気味に進むと正面に二本の古木の間に小さく粗末な小屋がある。それが「たたら神社」で、建物に関してはすでに写真等で認識していたが、地形と手前の朽ちた大木そして周囲を囲む樹木により独特な雰囲気を醸し出している。話だとこの場所から管理のしやすい所に移設する計画があると聞くが、この雰囲気は格別である。
社の手前左側には元禄6年の彫り込みがある花立石があり榊がさしてある。社内部は手前床の腐食が著しい、奥の一段上がった所に神棚がある。広さは畳2枚ほどで高さは中で私が立てる程度である。祭壇にはたたらが二個あり外に取り出して写真を撮る。
たたら神社を確認した後はたたらクズの探索、吉田氏が以前探した時の記憶と電話でオッシーから聞いた情報を元に、三叉路まで戻り平成登山道を少し進み、左側のスギ林の中を渓谷側に進む。
この辺りは樹齢50年ほどに成長した杉で覆われているが、ほとんど手入れがされておらず、たくさんの杉が根元から倒れており、倒れた杉をまたいだり地面との隙間を潜ったりしながら道なき道を進む。
石川氏が書かれた「宮崎市家一郷の製鉄址について」という文章の中で、たたら神社付近に長さ32m 幅17m 高さ2mのたたらクズを捨てた場所があると書いてあったが、現状はその上にも杉が育っているのではと思われる。
3人で杉林の中を探索、程なくして吉田氏から声がかかり、その場所に移動すると足元に数個のたたらクズが積まれた場所があり、周囲を確認すると雑草の下にはたくさんのたたらクズがある。すぐ側の倒れた杉の根元を見ると根に絡まった土の中にたくさんのたたらクズが混じっている。
この時、人の声が聞こえ私が「オッシー」と叫ぶと返事がある。「ああやはり来たのか」と感心する。オッシーの話では一旦「たたら神社」まで行ったが、誰もいなかったのできっと杉林の中でたたらクズを探していると思い電話で私に伝えた場所あたりを探していたらしい。
オッシーと合流し、さらにたたらクズの観察、製鉄の手法によるのか鉄くずと赤い土とが一体となったものが多く見られる。たたら製鉄のやり方はスケッチでは見たことがあるが、このたたらクズを直に見るとなるほどと思える。
この場所はトクソ山系と双石山に囲まれ、現在は杉林となった緩やかな地形である。足元に転がるたたらクズを見ながら、その昔次から次にと場所を移動しながらたたら製鉄が行われていたと考えると、この地で多くの人達の営みがあり集落が形成されていた。
安政元年(1854年)に飫肥藩の招聘により備後奴可郡(現・広島県庄原市東城)のたたら職人である遠藤伴右衛門が内海川上流でたたら製鉄に取り組み2年ほどで失敗し帰郷したと飫肥藩家老の日誌に記述があるらしく、その子孫にあたる方が内海川上流にある「岩下の鉄山」「広渡の鉄山」付近に地元民の案内で訪れた時に「この周辺でたたら製鉄が行われていた」と言われたという話を聞いていたが、たたら製鉄に相応しい場所があるのだろう。
「岩下の鉄山」「広渡の鉄山」については、幕末に行われたが、いずれも成功していなかったらしい。家一郷のたたら製鉄は神社に残された石の花立の正面には梵字の下に「千古名高家一郷、鉄山来出作民郷、敬奉寄進花瓶石、神威尚増末世郷」、右側には「当山神古跡・有御利生参詣出之輩 ・多其数無其験我鉄山為 勤役為末代拾山刻花立以奉 寄進者也」、側面に「元禄六年癸酉卯月日」の下に「岩切市郎左衛門 九永権兵衛」とあり、裏面に「村下作助 大工長左衛門」と刻んである。
元禄六年は1693年で「岩下の鉄山」の160年前に、家一郷ではすでにたたら製鉄が行われていたことになる。「岩下の鉄山」「広渡の鉄山」については幕末にその記録が残っており2年ほどで失敗しているが、家一郷のたたら製鉄はどのくらいの期間続いたのであろうか。
たたら製鉄には燃料の木炭が必要であり、加江田渓谷から双石山尾根筋までの山肌にたくさんの炭焼き跡があることを考慮すると、相当長い期間たたら製鉄が行われていたのではと想像する。
参考文献
・1 日向飫肥藩の製鉄ー内海鉄山 (鉄の日本史 松井和幸著 筑摩書房)
・2 肥後石見系たたら (たたら製鉄の歴史 角田徳幸著 吉川弘文館)
・3 宮崎市家一郷の製鉄趾 (石川恒太郎著)
・4 飫肥藩の鉄山とたたら製鉄の伝播 (湯浅倉平著)
Tラン 花後

加江田渓谷 堰堤
赤い油膜のようなものは「鉄バクテリア」ではないかと、
吉田氏より後日連絡がある

今後の参考資料として「加越たたら研究会」のHP